(昭和記念公園・・・いつかの春)
昭和6年(1931)の満州事変以後、軍都として重要な役割を持つようになった
立川は、太平洋戦争末期の昭和20年2月から4月にかけ、米軍の大規模な空
襲を何回も受けた。
4月4日未明、米軍の空襲を知らせるサイレンが鳴り響き、老人や子ども42人
が避難した防空壕にB29の落とした250キロ爆弾が命中し、全員が亡くなった。
「山中坂の地蔵尊」は、この時に亡くなった人たちの慰霊のために建てられた
ものである。
終戦直後9月2日、米軍第一騎兵師団(後に米第五空軍)が進駐、立川飛行場・
立川飛行機を接収して米軍立川基地となった。
日本政府の方針で設置されたRAA(特殊慰安施設協会)は、日本婦女子の貞
操を守る防波堤をつくるという名目で、「立川パラダイス」と「小町」の二ヶ所に慰安
所を設立した。
基地の中には下士官用のNCOクラブと将校用のオフィサーズクラブがあって、
ベースキャンプ巡りのミュージシャンや歌手がやって来た。
ジョージ川口とビッグフォー、弘田三枝子、江利チエミ、フランク永井、ハナ肇、
いかりや長介、寺内たけしたちも立川ベースキャンプで育った人々である。
立川パラダイスがオフ・リミットで閉鎖されてからは羽衣町の特殊飲食街へと米
兵士たちが流れ込み、富士見町にも大型のキャバレーがオープンしていく。
白人は東、黒人は西立川寄りと遊ぶ場所もこの頃から分けられた。
基地周辺の北口、曙町から高松町にかけて米兵相手のキャバレーやあやしげな
バー、闇の女が利用したパンパン宿、ホテル、旅館が林立した。
立川の好景気を背景に赤線業者やパンパン業者たちは横須賀など他地区からも
女を集め、昭和22年頃には特殊女性は600人を超え、朝鮮戦争が勃発した25年
から27年頃には5,000人を超えるほどだった。
昭和33年に売春防止法が施行され、立川から赤線の灯が消えていった。
立川基地は、拡張問題で農民が立ち上がり勝利した砂川闘争を経て、日本に全面
的に返還されたのは昭和52年(1977)であり、米軍の進駐後、実に32年ぶりのこ
とだった。
参考文献/「花街・色町・艶な街」上村敏彦著・街と暮らし社
「立川の歴史散歩」立川教育委員会