藤本すすむブログ「100万回生きたねこ」

越後三十三観音巡り  第三十一番 正円寺
 

 第三十一番  龍形山 正円寺 (真言宗 智山派)
 所在地     五泉市村松寺町
 
 【ご本尊】   聖観世音菩薩
 【御詠歌】   ひとむらの松にやどれるひなづるも ともにみ法のこえたてつべし
       
| - | 00:54 | comments(0) | trackbacks(0)
越後三十三観音巡り  第三十番 普談寺


 第三十番  旭山 普談寺   
 所在地   新津市朝日2560 
 
 【ご本尊】   十一面観世音菩薩
 【御詠歌】   祈るから今は残らず身の罪を 朝日の里の霜にたとえて
| - | 00:29 | comments(0) | trackbacks(0)
越後三十三観音巡り   第十六番 椿沢寺
 

 第十六番  秘密山 椿沢寺 (真言宗 智山派)
 住所     見附市椿沢町3256
 
 【ご本尊】  千手観世音菩薩
 【ご詠歌】  椿沢 八千代をかけて祈るから こころの花もさかりひさしき
| - | 00:22 | comments(0) | trackbacks(0)
四谷コタンライブ   クリスマスイブ
 
                            (クリスマスツリー Sさんの作品)

 12月はどこの街もクリスマスのイルミネーションで華やかであるが、その景色
を見ても、自分の心はそれほど華やかではない。キリスト教徒でもないし、クリス
マスの本質とのギャップに少し違和感を感じることも否めない。
 明るく綺麗なイルミネーションは、年末らしい気分にさせてくれ、それなりに楽し
むことは出来るけど・・・

 高校卒業後上京して間もないころ、国立の大学通りで、高校の音楽部の先輩と
ばったり出会った。その人が国立のキリスト教会に通っていて、学生たちを中心
に聖歌隊で合唱もしているからと、誘われて教会に行ってみた。

 人の生死、人生、神、宗教など、いっちょまえに哲学的なことに興味を持ってい
た青年は、教会の厳かな雰囲気がすぐ好きになった。大学受験の浪人中の一人
暮らしで友達が欲しかったのだろう、教会の人たちの優しさが嬉しかった。
 1年ほど日曜礼拝に通い、聖歌隊の夏合宿で軽井沢に行ったり、教会の人たち
との付き合いがあった時期である。

 クリスマスというと、まず必ず思い出すのは、その頃のこと、その人たちのこと。
今回のコタンライブで、短い詩を朗読した。
  
 
               クリスマスイブ 
                               詩 藤本すすむ  

       賛美歌を歌う吐息が 白く漂い消えてゆく
       凍てつく冬空の下  小さな灯りの玄関先
       ひとり暮らしの老人の家 母子家庭のつつましい家

       僕はキャンドルサービスの聖歌隊
       どうぞ 心に灯りを 
       どうぞ この世に灯りを

       18才のクリスマスイブ
       僕はキャンドルサービスの聖歌隊
       どうぞ 心に灯りを 
       どうぞ この世に灯りを

 
 その当時読んでいた聖書をパラパラめくっていると、赤線が引かれた一節に出合った。 
 

      愛とは寛容であり、愛は情け深い。
      また、妬むことをしない。
      愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、
       自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。
      不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
      そして、すべてを忍び、すべてを信じ、
       すべてを望み、すべてを耐える。 

                       〜 「コリント人への第一の手紙」より〜 
   
 
  
| - | 01:54 | comments(0) | trackbacks(0)
四谷コタンライブ  転落の詩
 
                                 (28才ころ 四谷コタンで)

 コタンライブでは、このところ昔作った歌を引っぱり出し歌っているが、今回は
「転落の詩」。1982年1月の作品。アルバイトをしながら、歌を作りライブをやり
始めしばらく経った頃で、歌への熱い想いを秘めながらも、全く思うようにはゆか
ず、そうとう落ち込んでいた時期でもあった。


                  転落の詩
                              作詩・作曲 藤本すすむ

    悔しかったさ あいつの言葉に 腹を立てても 言い返せないで
    バカにされても 嘲笑われても 俺は俺だと こらえていたんだ
    情けない男になったものさ 頷くだけの臆病者か
    酔いがまわって帰る夜道で 大声張り上げ叫んでたくせに

    後ろめたさの 影は離れず 夕日見つめる 罪人のように
    ツケを残して ケリを付けぬまま 故郷も夢も そして女も
    情けない男になったものさ 逃げ去ることもできないなら
    今は黙ろう ろくでなしとして 身をつくろうように 酒に酔いしれ

    堕ちてゆくのは なんて早い 自分で首を占めてるだけさ
    働かなくては 金を稼がなきゃ 街へ飛び出し 埃にまみれて
    情けない男になったものさ 夜と孤独が汚れぬ国とは
    雀よ歌え 歌っておくれ 眠れなかった夜の終わりに

    雀よ歌え 歌っておくれ 眠れなかった夜の終わりに   
| - | 01:25 | comments(0) | trackbacks(0)
一人読み語り芝居   父と暮せば
 

 国立の富士見台「ひょうたん島」で、天のたつしさんの一人読み語り芝居「父と
暮せば」を観た。井上ひさしさんの作で広島の原爆をテーマとしたもの。

 「うちはしあわせになってはいけんのじゃ」愛する者たちを原爆で失った美津江は、
一人だけ生き残った負い目から、恋のときめきからも身を引こうとする。そんな娘を
思いやるあまり「恋の応援団長」をかってでて励ます父・竹造は、実はもはやこの世
の人ではない・・・・。「わしの分まで生きてちょんだいよォー」父の願いが、ついに底
なしの絶望から娘を蘇らせる、魂の再生物語。
                                (「父と暮せば」新潮文庫より)

 国立の富士見台は、立川の現住所に移る前に15年間ほど住んでた所で、当時か
ら喫茶店「ひょうたん島」はあり、時々コーヒーを飲みに行った。「ひょっこりひょうたん
島」の美術スタッフだった星野さんのお店である。
 谷保駅から大学通りを歩くと、銀杏が鮮やかに黄葉し、夕暮れ近くのせいもあり、
すこし初冬の物悲しさを感じた。

 前座でサズ奏者の藤井良行さんがトルコ語で、ナーズム・ヒクメットの歌を歌った。
「少女」「雪のブナ林」は私も取り上げている歌なので、口ずさみながら楽しんだ。

 「読み語り」というよりは、台本もほとんど見ないで演じる「一人芝居」で、二人の登場
人物、美津江と父・竹造を真剣にうまく演じ、80分の実に感動のステージだった。

 最後の方で、竹造が美津江に語る言葉

  「人間の悲しかったこと、たのしかったこと、
   それを伝えるんがおまいの仕事じゃろが。・・・・」

作者井上ひさしさんが自分自身に語りたかった言葉なのだろう。
きっと演者・天のたつしさんもそんな想いで、この一人芝居を続けているはずだ。 
終演後、小さなお店にあたたかな拍手が長く続いていた。


 
| - | 00:23 | comments(0) | trackbacks(0)
砂川闘争  赤とんぼ

                           (諏訪神社の夏祭り・・・いつかの夏 )
                
  怪我人も出て、みんな士気が落ちてくると、何か歌を歌おうということになり、
「国際学連」の歌とか「インターナショナル」とか歌う気力もなくて、またそういう歌
を歌うと警察が攻め込んでくるということで、「赤とんぼ」を歌った。・・・・

                                  森田実さんの文章より

 誰が音頭をとった訳でもないのに、「夕焼けこやけの赤とんぼ」が始まって、お
巡りさんの方も、ボロボロ涙を流した。あちらも田舎から出ていたり、いろいろあっ
たんでしょうか。そのとき私は二十代。その後ずっと覚えています。・・・

                                                             岩垂寿喜男さんの文章より

 「砂川闘争50年 それぞれの思い」という本の中で、特に印象に残った部分だ。
やはり、闘争の中に歌があった。
 砂川の空に響いた「赤とんぼ」を想像すると、傷心な想いで、士気を奮い立たせ
ようと、泣きながら歌っていたんだろうなと思われ切なくなる。

 表紙の次に続く写真のページから「赤とんぼ」が聞こえてくるようだ。

五日市街道沿いの見張り所。決意の硬さを示す「心に杭は打たれない」看板
五日市街道のデモ行進
砂川闘争で大きな力を発揮した地元の女性たちの真剣な眼差し
「不服従」「決死」と大書きされた反対同盟のムシロ旗
自宅の敷地内に「団結小屋」を建て、一貫して基地拡張に反対し続けた
 「団結じいさん」の愛称で知られた馬場源八さん
畑、鉄条網のフェンス、そして頭上を飛ぶ軍用機
先祖伝来の農地を、もうこれ以上取られたくない・・・集会で語り合う地元の人たち
集会をする学生たち。「原水爆基地反対」のスローガン幕
砂川中学校の講堂に泊まり込んだ学生たち。ムシロや俵が布団がわり
1956年10月13日、流血の激突。警棒でめった打ちにされる学生
警棒で首を締め上げられる学生
むき出しの暴力と人間の誇りとの闘い
10月15日、阿豆佐味天神社で開かれた勝利の報告集会。参加者4,000人
自らの手で勝ち取った勝利に、はじける笑顔・・・

               参考・引用・・・・「砂川闘争50年 それぞれの思い」
                                  星紀市編/けやき出版

 砂川闘争での「We shall overcome」は、「赤とんぼ」であった。

             
             赤とんぼ
                       三木露風 作詞
                       山田耕筰 作曲
        
        夕やけこやけの 赤とんぼ
        おわれてみたのは いつの日か

        山の畑の くわの実を
        小かごにつんだは まぼろしか

        十五でねえやは 嫁にゆき
        お里のたよりも たえはてた

        夕やけこやけの 赤とんぼ
        とまっているよ さおのさき
| - | 13:40 | comments(0) | trackbacks(0)
砂川闘争   心に杭は打たれない
 
                             (羽衣ねぶた祭・・・いつかの夏)

 「あの砂川闘争があったから今の立川の街の繁栄がある」
元市長・青木久さんの言葉。
 立川の歴史を紐とくには、砂川闘争を知らねばなるまい。

 「砂川基地闘争」とは、アメリカ軍立川飛行場の拡張をめぐり、昭和30年から1
5年間にわたり続いた大きな住民運動である。
 アメリカ軍立川飛行場の前進は、第日本帝国陸軍の飛行場で、太平洋戦争の
時は「軍都立川」といわれた。
 昭和20年の敗戦によりアメリカ軍に占領されてからは、朝鮮戦争、ベトナム戦
争の出撃拠点となる。

 昭和30年、大型機の離着陸のために、さらに滑走路を延長がアメリカ軍から
要求された。これに対し砂川の農民たちは反対し、強制収用のための土地測
量にあらゆる方法で抵抗し、裁判所や東京都収用委員会でも論陣を張って、一
歩も譲らなかった。

 昭和43年、ついにアメリカ軍は拡張をあきらめ、翌年国も収用認定を取消し
15年間の闘いに終止符が打たれた。
 やがてアメリカ軍は横田基地に移り、昭和52年立川基地は日本へ全面返還
されたのだった。

 国が農民の抵抗を警察官の暴力で排除して測量を強行していったとき、
「土地に杭は打たれても、心に杭は打たれない」
という言葉を合言葉に、農民たちは団結を崩さず闘い続け勝利したのである。
 万余の労働者、学生、知識階級の人々が砂川にかけつけ、誰もが身を挺して
自由と権利を守ろうとしたのだ。

                   参考・・・ 「砂川闘争50年、それぞれの思い」
                                星紀市編/けやき出版
| - | 10:20 | comments(0) | trackbacks(0)
立川の歴史 基地の街・タチカワ
 
                            (昭和記念公園・・・いつかの春)

 昭和6年(1931)の満州事変以後、軍都として重要な役割を持つようになった
立川は、太平洋戦争末期の昭和20年2月から4月にかけ、米軍の大規模な空
襲を何回も受けた。
 4月4日未明、米軍の空襲を知らせるサイレンが鳴り響き、老人や子ども42人
が避難した防空壕にB29の落とした250キロ爆弾が命中し、全員が亡くなった。
 「山中坂の地蔵尊」は、この時に亡くなった人たちの慰霊のために建てられた
ものである。

 終戦直後9月2日、米軍第一騎兵師団(後に米第五空軍)が進駐、立川飛行場・
立川飛行機を接収して米軍立川基地となった。

 日本政府の方針で設置されたRAA(特殊慰安施設協会)は、日本婦女子の貞
操を守る防波堤をつくるという名目で、「立川パラダイス」と「小町」の二ヶ所に慰安
所を設立した。

 基地の中には下士官用のNCOクラブと将校用のオフィサーズクラブがあって、
ベースキャンプ巡りのミュージシャンや歌手がやって来た。
ジョージ川口とビッグフォー、弘田三枝子、江利チエミ、フランク永井、ハナ肇、
いかりや長介、寺内たけしたちも立川ベースキャンプで育った人々である。

 立川パラダイスがオフ・リミットで閉鎖されてからは羽衣町の特殊飲食街へと米
兵士たちが流れ込み、富士見町にも大型のキャバレーがオープンしていく。
 白人は東、黒人は西立川寄りと遊ぶ場所もこの頃から分けられた。

 基地周辺の北口、曙町から高松町にかけて米兵相手のキャバレーやあやしげな
バー、闇の女が利用したパンパン宿、ホテル、旅館が林立した。
 立川の好景気を背景に赤線業者やパンパン業者たちは横須賀など他地区からも
女を集め、昭和22年頃には特殊女性は600人を超え、朝鮮戦争が勃発した25年
から27年頃には5,000人を超えるほどだった。

 昭和33年に売春防止法が施行され、立川から赤線の灯が消えていった。
立川基地は、拡張問題で農民が立ち上がり勝利した砂川闘争を経て、日本に全面
的に返還されたのは昭和52年(1977)であり、米軍の進駐後、実に32年ぶりのこ
とだった。
                参考文献/「花街・色町・艶な街」上村敏彦著・街と暮らし社
                      「立川の歴史散歩」立川教育委員会
| - | 21:08 | comments(0) | trackbacks(0)
立川の歴史  多摩川と街道
 
                              (昭和記念公園・・・いつかの春)

 立川市の南端、日野市との境を多摩川が流れている。多摩川は山梨県塩山市
の笠取山の中腹、水干(みずひ)を水源とし、大田区羽田で東京湾に流れ込む
全長124kmの一級河川である。

 川は、昔から飲料水、農業用水としてはもちろん、筏でモノを運んだり、砂利を採
ったり魚を採ったりと人々の生活や経済の流通、文化の交流に大切な役割を果た
してきた。

 むかし、澄んだ水をたたえた多摩川にはたくさんの川魚がいた。川魚が貴重なタ
ンパク源であった江戸時代には、多摩川の鮎が「上げ鮎」として江戸城に献上され
ていたという記録も残っている。

 明治時代になって、甲武鉄道が開通すると、東京から多摩川へ遊びに来る人が
増え、多摩川河畔は、行楽地として賑わうようになった。川面を屋形船が行き交い、
鵜飼がくり広げられていたのである。

 甲州街道が多摩川を渡る地点に架けられたのが日野橋で、大正15年(1926)
のことである。それ以前、日野の渡しが甲州街道を行き交う手段であった。

 鎌倉街道も立川には残っている。
諏訪神社東側・・・普済寺直前・・・「沢」の坂・・・多摩川・・・・日野・・・と続く。

 川と道は、人と人のふれあいを生み出してきたのである。

                    ・・・「立川の歴史散歩」立川教育委員会/参照・・・



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