藤本すすむブログ「100万回生きたねこ」

人形劇団の話 3 / 詩 『ブルース流れるキャベツ畑』

<写真:劇団ろば・なめとこの熊>

「リズムの本質とは、時間を切るこである」
             クラーゲス『リズムの本質』
(昨日のつづき)
 なめとこ山の小十郎は、殺した熊を里の旦那ののところに売りに
行く。森では敵うものの無い小十郎も、里の旦那には全く意気地が
なく、いつも二束三文で毛皮を買い取られてしまう。
 何年かして小十郎は、なめとこ山で熊を初めて撃ち損ね、熊に殺
されてしまう。熊は自分たちの仲間が死んだときのように小十郎を
葬り、小十郎がだまされ続けた里の旦那のところへ、その借りを返
しに山を降り里へ、かがり火を掲げ行進して行くのだ。
「奪われたものを取り戻す、それが本当の弔いだ」と。

 私は三ヶ月を過ぎた頃から、大きなぬいぐるみに入り、なめとこ
山の熊になっていた。熊の演技にも少しずつ余裕が出てきて、物語
に感情移入し演技を楽しめるようになっていた。
 現実の矛盾を提示するような物語に、すすり泣く子どもたちの声
が聞こえていた。 

 劇団主宰者のKさんからは、いろいろ教わった。「この本を読み
なさい」と一冊薦めてくれたのが、クラーゲスの『リズムの本質』。
音楽的要素の「リズム」について書かれたものだが、今でも、自分
の仕事・音楽・旅・卓球など、生活時間を効率よく使うために、意
識的に思い出す言葉である。リズムのある生活をしたい思うが、な
かなか出来ないでいる。

 子どもの歌シリーズ、30代半ばの作品。

         ブルース流れるキャベツ畑
         作詩・作曲 藤本すすむ

     ブルース流れる ブルース流れる キャベツ畑に
     青虫モソモソ 青虫モソモソ おいらは貨物列車さ
       重い涙は運べない 虚しいため息運ぶもんか
       いつかヒラヒラ舞うなんて とても考えられないけど
       幼い体引きずって 高い高い空見てる
   
     ブルース流れる ブルース流れる キャベツ畑に

     青虫パクパク 青虫パクパク キャベツ畑に
     お腹はブクブク 体はコロコロ おいらは何でも食べちゃう
       軽い笑いは乙なもの 切ないドラマも味なもの
       いつかヒラヒラ舞うなんて とても考えられないけど
       もうじきさなぎになる季節 この身をどこへ置こうかな
     ブルース流れる ブルース流れる キャベツ畑に
| - | 17:03 | comments(0) | trackbacks(0)
人形劇団の話 2 / 詩 『 ひとりっこ 』

<写真:劇団ろば・なめとこやまの熊>

 猟師を「マタギ」というが、それは「また鬼になる」という意味
なんです、と聞いたことがある。

 私がお手伝いしていた頃の劇団ろばが上演していた作品は、宮沢賢
治の童話「やまなし」「貝の火」「なめとこやまの熊」。
 石川啄木の短歌、中原中也の詩、宮沢賢治の詩・童話を好きな私は、
すぐにろばの人形劇の世界に入ることができた。
 あらかじめテープに録音されたナレーションや台詞にあわせ、手使
い人形・棒使い人形を操作する。私も簡単なものから担当がまわって
きて、人形劇にも参加するようになった。
 もとロックバンド頭脳警察のパンタさんと石塚さんが音楽を担当
していて、演劇の効果音やテーマソングなども面白いなと思った。
 
「なめとこやまの熊」は泣ける話である。
なめとこやまの猟師小十郎は、熊とりの名人で、どんなに強い熊も
小十郎の鉄砲にはかなわなかった。しかし、熊たちと小十郎とはお
互いの言葉がわかってしまうほど、気持ちが通じ合っていた。
小十郎は熊を殺すたび悲しい気持ちだった。

 熊を殺さなくては生きてゆけない、「また鬼にならなければ」と。
生き物を殺生してしか、人間は生きてゆけない。その生命の矛盾の
ようなものが、まずは根底にある話だ。
 宮沢賢治は、熱烈な仏教・法華経の信者であったのだ。

 
子どもの歌シリーズ、23才頃の作品。

           ひとりっこ
        作詩・作曲 藤本すすむ

       影踏み遊びができない 一人じゃ
       兄弟げんかもできない 一人じゃ
    家路をたどる兄弟鳥が 山の向こうの夕陽に消える
    ひとり遊びに飽きてしまって 母を恨んで泣いていた
      小さい頃からの思い出に 兄 弟 姉 妹
         そんな言葉の一時も無い

       無理してはしゃいじゃいないよ 私は
       みんなといつも楽しく いたいの
   ピエロのような悲しみじゃない けれどどこかさめた影が
      私の心埋めているの 私はやはりひとりっこ
     小さい頃からの好きなもの 電話 手紙 そして友達
         みんな寂しさ包むもの

         花嫁人形を飾った お部屋に
        あなたはどなたにもらわれて行くの
        打ち明け話 鏡の中の私にそっとささやいた
        恋する気持ち 胸の中の宝石箱に入れとくの
    誰かが言ってた ひとりっこ 一度決めたら 身を賭けても
           一途な恋をするという

        影踏み遊びが出来ない ひとりじゃ
        兄弟げんかもできない ひとりじゃ
| - | 15:45 | comments(0) | trackbacks(0)
人形劇団の話 1 / 詩 『私はたけのこ』

<写真:劇団ろば・やまなし>

「自分をだましだまし、踊っているのよ」話の前後から、ドサ周り
のストリッパーの会話らしい。そんな言葉が、ふと耳に止まったあ
る地方の喫茶店。
 
 20代後半の半年間ほど、「人形劇団ろば」(かなり以前に解散した
らしい)にいた。団員が足りないということで、荷物運び程度の仕事
を手伝ってもらいたいと声をかけてもらった。
 宮沢賢治の童話の人形劇を、小学校で上演している劇団で、岩手、
青森など地方の小学校が多かった。大きなスピーカーや鉄骨、照明
器具などを、2台の大きなバンに運び、移動していた。
 上演する小学校の体育館に荷物を搬入し、舞台を組み立て、上演
し、舞台を解体し、搬出する。それは、ほとんど早朝からの肉体作
業だったから、この時期に胸の筋肉がついた気がする。
 上演が開始される前の、子どもたちの「おはようございます」と
いう声や、上演中の笑い声や、すすり泣きを耳にして、眠気や疲れ
も消え去り、また別の小学校へと向かっていった。

 民宿や、ビジネスホテルで、劇団員は一緒に食事や睡眠を取り、
他の時間も、当然一緒に行動する時間が多かったから、ぽつんと
全く一人でいられる時間は貴重だった。そんなときは、喫茶店へ
行き、読書したり、ノートにものを書いていた。
 近くのテーブルから、ふと聞こえた言葉が、記憶の中にある。
「自分を支えてゆく」とは、ある意味、自分をだましだましゆく
ことに違いないが、今でも、仕事と歌の兼ね合いなど、少なから
ず胸を痛めているのである。
 
 人形劇団の話にちなみ、子どもの歌シリーズ、40代半ばの作品。


            私はたけのこ
         作詩・作曲 藤本すすむ

    雨上がりの竹やぶに そっと頭を出しました
    土の中の暮らしも それなりに楽しいものでした
    近くで不貞寝のミミズ君 そろそろまじめに起きなさい
    さわやかはつらつ伸び手行く 私は たけのこ

    たけのこ掘りの人間に もしも見つけられたなら
    倒され剥がされ鍋の中 行くかもしれません
    そしたら白い柔肌と 命の香りをあげましょう
    元気が無いなんて言わせない 私はたけのこ

    雨上がりの竹やぶで すくすく伸びて行くでしょう
    葉っぱもいっぱい付けるでしょう 七夕の頃までに
    緑の風に吹かれて 天に向かって生きたなら
    青い空に愛される 私はたけのこ

    緑の風に吹かれて 天に向かって生きたなら
    青い空に愛される 私はたけのこ
| - | 09:58 | comments(0) | trackbacks(0)
秩父・再生の旅 7 / 詩 『 堕ちても枯れても 』


 この秩父の旅以後、二度秩父を訪れた。
一度は、『カタクリの花』が出来、ライブで歌うようになった春先。
カタクリの花を実際にその場所・カタクリ群生地で見ようと、その
咲く頃に合わせ出かけてみたが、花はほとんど咲いていなかった。
偶然に近くの大淵寺のお葬式の花輪に、通信隊代表Kさんからの花
輪があり、材木会社の社長さんであることを知る。慰霊碑文の最後
に慰霊碑の建立者として記されていた,その戦争の体験者でもある
Kさんに、いつかこの歌を届けたいと思った。
 昨年、CDが完成し、沖縄のライブツアーが終わり、一段落した
8月のお盆にCDを持って再び秩父へ。そのKさんの会社の所在地
を調べ、行き当たりばったりに尋ねてみた。あいにくKさんは不在
だったが、奥様にそのCDを渡すことが出来た。その日の夕方、少
し興奮したような声で、「ありがとうございました」と丁重なお礼
の電話をいただいた。『カタクリの花』の第一章がようやく終わっ
たなと、胸を下ろした。
 あれから7年、慰霊碑のある墓地は、広く立派なものに変わってい
た。慰霊碑が、ずっと隅に追いやられたかのように。
 
 秩父の旅を終え、しばらくしてライブを再開することとなる。
一時心情的に歌えなくなった歌で、この旅のあと、素直に歌えるよ
うになったものがある。それが『堕ちても枯れても』、歌をつくり
歌って行こうとの覚悟を込めた20歳代半ばの作品。
 秩父の旅は、人生の転機となる再生の旅であった。

           堕ちても枯れても
         作詩・作曲 藤本すすむ

    憂鬱な雨が続く日々 道行く人もうつむきがち
    木立家並みそして街と 心にのっしり雨空おおう
     こんな日小鳥はどこで 雨宿りしているんだろう
     路上に雨に打たれて 無残な小鳥の死骸
    堕ちてもいい 堕ちてもいい 飛ばない鳥は落ちもしまい
    堕ちてもいい 堕ちてもいい 命の翼羽ばたかせたい

    あの人電話で告げてきた 遠くの街でやり直すと
    会いたいときだけ甘えては いつまでそばにいるはずも無い
     庭の紫陽花雨を受け 嬉しそう咲き濡れる
     去ってゆく人よ 今さらに もっと愛せばよかった
    枯れてもいい 枯れてもいい 咲かない花は枯れもしまい
    枯れてもいい 枯れてもいい 心の花びら開かせたい

    きっと目の前の悲しみに 心惑わされているんだ
    晴れぬ季節に今いても 次の季節の景色を抱く
     雨空の上はいつも 海のような青い空
     雨空突き抜け眼差しを 空のきわみに向けて
    降りしきれ 降りしきれ 空にあるだけ雨よ降れ
    降りしきれ 降りしきれ 悲しみすべて流し去れ

                   CD『歌を歩く』収録曲
| - | 18:24 | comments(0) | trackbacks(0)
秩父・再生の旅 6 / 詩 『 さすらい人の歌が聞こえる 』

<写真:秩父観音巡りの途上>

 秩父三十四観音巡りの旅をしたのが1999年・平成11年のことである。
この旅をきっかけに、日本国内のお寺巡りの旅が始まる。
2000年に坂東三十三観音巡り。2001年から2年かけ、西国三十三観音巡
り。2003年から3年かけ、四国八十八箇所の札所巡り。
「ふらねこ」は、これらの旅にも、さかのぼって出かけるだろから、
「観音」についてガイドブックを参考に、簡単に解説しておこう。

1. 観音とは…衆生の音声(おんじょう)を観ずる観世音菩薩のこと

   観世音菩薩の「菩薩」とは、「真理を求めて修行する人」という意味。
  真理を悟った人を「如来」という。観世音菩薩は、すでに悟りを開きなが
  ら、再び衆生を救済するために下りてきた人である。
   観世音菩薩は三十三の姿に変化して人々を救うという。「三十三」とは
  無数・無辺を意味する数で、応身自在に、どんな姿にでもなって、私たち
  を見守り、救ってくださる事を意味している。

   観音信仰は、西暦1世紀頃インドで始まり、日本へは飛鳥時代に伝わり、
  主に現世利益を授けて下さる方として信仰されてきた。「現世利益」は、
  「観音の御名を称え  るこということは、自分自身の中にある観音様を
  目覚めさせ、その力が自らを救う」という内面的利益の側面もある。
   いろいろな種類・姿の観音がいる。ちなみに六観音とは、六道輪廻のそ
  れぞれの世界で救済する姿である。地獄→千手観音、餓鬼世界→聖観音、
  畜生界→馬頭観音、阿修羅界→十一面観音、人間界→不空絹索観音、
  天道→如意輪観音。六道は我々の世界にも存在するが、実際に死後六道の
  どこへ輪廻して行っても救ってくれるのが観音と考えられたのである。

2.観音霊場…観音巡りの旅

   全国に、寺は約8万あるといわれている。観音札所も北海道から九州まで
  あるが、代表的なものが、西国三十三観音、坂東三十三観音、秩父三十四
  観音であり、合わせて百観音と称される。
   
   最も古い時代に成立したものが西国巡礼で、伝説では大和長谷寺の開山・
  徳道上人が閻魔大王のすすめで発願し、関西地方を行脚して養老2(718)年
  に33ヶ所を選んだのが始めという。滝で有名な那智にある青岸渡寺は1番札
  所、天橋立を見下ろす成相寺は28番札所、琵琶湖の竹生島にある宝厳寺は、
  30番札所。

   坂東(箱根の坂の東、関東を意味する)札所は、鎌倉幕府の成立を契機に誕
  生したと考えられる。観音信仰の厚かったことで有名な源頼朝が、西国へ戦
  いに行き、西国霊場を模倣し、各地の豪族などに寺院を推挙させ、3代将軍実
  朝が札所を制定したという説が有力だ。鎌倉の大仏・長谷寺は4番札所、浅草
  浅草寺は13番札所、日光中禅寺湖の中善寺は18番札所。

   秩父霊場は、文暦元(1234)年に性空上人をはじめ13人の聖者が開創したと伝
  えられる。最初は33ヶ所だったが、西国、坂東、秩父とあわせって百霊場とす
  るため、一ヶ寺を加えて34ヶ所になった。秩父霊場は江戸に近いことから、多
  くの人々が訪れ、寛永3(1750)年の3月1日から3月21日の0期間に2万6000人以上
  の人が1番四萬部寺を訪れたという記録もあるそうだ。

   観音巡りの巡礼者は、はじめは修行僧や武士が中心だったが、室町時代にな
  ると、一般庶民の間にも広がり始め、江戸時代には札所巡りは最盛期を迎える。
  お伊勢参りをしてから西国を巡り、信州の善光寺を参拝して江戸に戻るコース
  が人気で、物見遊山的な雰囲気が強かったらしい。

 私は、思春期の高校時代から、虚無的傾向にあり、「さすらい」とか
「巡礼」という言葉が好きだった。その求道的イメージがいい。
高校を卒業して上京する時に持ってきた2冊の本のタイトルは、「さす
らい人の思想」と「アウトサイダー」だったように記憶している。
 21歳の時、しばらく付き合っていたひとりの女性と別れた。歌を作っ
て別れたのだ。1975年、春のこと。

         さすらい人の歌が聞こえる
         作詩・作曲 藤本すすむ

       お前なんか捨てて ひとり旅に出よう
       涙なんか捨てて 別れのくちづけを
       さわやかな愛が 消え去るときには
       聞こえる 昔の 
       砂漠をさすらう 民の歌声が

       これが最後だろう お前の白い胸も
       気休めなんていらない ひとりの旅立ちを
       まことの神を 見い出すまでは
       聞こえる 昔の
       砂漠をさすらう 民の歌声が
    
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秩父・再生の旅 5 / 詩 『 独り歩き 』

<写真:秩父観音巡りの途上>

 秩父の歩き旅を終えてから、人生の風向きが少しずついい方向に転
じて来た。

 41歳で脱サラし、自宅で行政書士事務所を構えたが、営業は全くせ
ず、何とか食いつなげほどの収入で、その頃も、時間のあるのを幸い
に音楽活動や、卓球をのんびりやっていたのである。自然流でいいの
だ、何とかなるだろうと。

 秩父の旅を終えたその秋口から、手形不渡りを出した会社の再建事
案、会社設立事案、相続関係事案などが入ってくる。
 その相続事案が面白かった。昭和26年に亡くなった人の財産であっ
た土地が、まだ相続登記されておらず、その手続きに必要な遺産分割
協議書に相続人から実印を押印してもらうという仕事だった。その以
前には、弁護士が手がけ中断し、司法書士が手がけ断念し、私に回っ
てきものだった。
 相続人が亡くなり、その子・代襲相続人に権利が引き継がれていた
ケースもあり、その時点で、相続人は27人。その全員に、承諾しても
らわなければならないという状況になっていた。住んでいるところも、
秋田、長野、東京、千葉、埼玉、神奈川、静岡、大阪、兵庫、岡山、
と全国に散らばっていた。

 少し説明を受けた状況から、果たして出来るだろうかとの危惧も十
分あったが、なぜか、出来そうな予感がしたのである。
 遠い昔の話で、全く事情を知らない人もいたので、理解し承諾して
もらうため、4〜5世代にも膨れ上がった複雑な相続人の家系図と状況
説明書を丁寧に作成し、じっくり作戦を練り、何度も電話連絡を重ね、
いよいよ相続人を訪ねる旅が始まった。
 ある程度順調に進んでいったが、旅にも仕事にも難所は付き物。長
野のWさんは高齢で、印鑑登録もしていないおばあさんだった。準備
段階から、何度電話しても、今回の押印を拒絶され、「あなたの声を
聞くと気持ち悪くなります」と言われたほど。「とりあえず会ってみ
て下さい」と、長野を尋ねたとき、やはり最初は全く話に応じてもら
えなかった。
 しばらく世間話をしていると、床の間に掛けられてあった信濃観音
巡りの掛け軸が目に留まった。私は観音巡りの話を切り出した。しば
らく観音巡りの会話をしていると、次第に心が打ち解けてきたように、
その人の表情が柔らかくなり、ついに今回の件を承諾してもらえるこ
とが出来た。帰り際には「大阪に行ったら、向こうの兄によろしく伝
えてね」と深々お辞儀してくれたのだ。
 「戦争中、疎開先でいじめられたから、そこに関係する今回の話に
は応じたくない」と幼年時の話を持ち出しゴネタ人もいた。岡山の人
は、準備段階では、行方不明になっていて、これも完遂を妨げる要因
であったが、私の郵送した書類を見たらしく、「やっと兄から連絡が
来ました」と埼玉に住む妹さんから、嬉しそうな声で電話が入ったこ
ともあった。

 他にも難しい問題はたくさんあったのだが、12月暮れも押し迫った
頃、この仕事は完了した。登記を担当してくれる司法書士さんから「
よくやりましたね」と電話をいただいた。自分でも奇跡的な仕事だっ
たと、今でも思っている。観音の力だったのではないかと。

 その後、それぞれの仕事も順調に進み、また面白いことに、旅から
帰っ来ると新しい仕事が自然に入いったりで、次第に忙しなってきた。
時間が出来たらライブを再開しようと考えていたが、もうそんな余裕
はなくなり、とにかくライブをやって行こうと決めたのである。
 人生は、再生の連続であろう。昨日はだめだったなと想い、今日を。
今日もだめだったなと想い、また明日へ。「ふらねこ日記」も、そん
な感じなのだが、学生時代につくった歌を一つ。


              独り歩き
          作詩・作曲 藤本すすむ

      いつだって今日からだ 今からだ さあ 歩き出せ
      あきらめは甘い隠れ家 それより一歩 また一歩
      いつだって合言葉は 生きてるか 感じているか
      この俺の心は 殺されてなるものか
    生きてゆくことの果てしなさは 荒野をさすらう旅人のようだ
    吹きすさぶ風 見上げれば空 すべて旅の道連れ

      誰だって独り旅 地図の無い独り旅
      めぐり合うその人と さみしさを分かち合う
      誰だって生まれるとき 泣いている 悲しいのだろう
      旅の終わりには笑っていたい 歩いた道を振り返り
    生きてゆくことの遥けさは 海面に浮かぶ小船のようだ
    沈み行く夕陽 見返れば月 すべて旅のあこがれ





| - | 22:09 | comments(0) | trackbacks(0)
秩父・再生の旅 4 / 詩 『歩くことは』

〈写真:秩父観音巡り・山の上の観音像〉

 観音巡りの仏教的意味はさておいて、とりあえず歩き通してみたかった。
お寺では、願い事は一切せず、形ばかりのものだが般若心経を巡礼の作法
として、小さな経本を見ながら唱えた。はじめは自分でも恥ずかしく、ぶ
つぶつ読んでいるだけだったのが、次第に他の参拝者にも聞こえるような
声になる。単に、声を出し経を読むことが快感になってゆく。
 元来声の大きい私は、酒場では「うるさい」とよく注意されるし、卓球
でも声の大きさだけは優勝できるのではないかと思うほど、一時は声を出
すことに試合の意義を感じていたくらいだ。
 お経を唱えることは、十分発声練習にもなるのだった。

 歩いてている最中、退屈するんじゃないかと思ったが、退屈したことは
なかった。一人でいる時間が若い頃から多かった私は、頭の中でいつも、
くるくる言葉がめぐり、対話しているような気さえする。
 周りの風景も飽きないし、人家の表札を見ると今まで出会ってきた人たち
の顔が浮かんできたりもし、退屈する暇も無かった。
 カセットテープのウォークマンで好きな歌を聴きながら歩くこともあった。
この時間が、またいいのだ。好きな歌を聴きながら、ただ歩く。普段では、
なかなか持てない時間なのだ。

 民宿を宿にしながら5泊6日、第1番四万部寺から第34番水潜寺までの約120
キロの歩き旅。足にマメを作りながら、雨に濡れ、炎天下の陽射しにもずぶ
濡れになり、さわやかな風に吹かれ、夕方には足は棒のように疲れ、歩いて、
歩いて、ふと出てきた言葉が、「そうか、歌を歩けばいいんだ」。


            歩くことは
                   藤本すすむ
 

           爪先が意志になり
           前へ前へ歩きたがる
         疲れたら空を向いて歩こう
           胸が自然と歩き出す

          向日葵が咲いている
           蝉が鳴いている
           魂の発する一言だ
          夏雲のようにくっきりと

         寺の軒下でおにぎりを食べる
        どこからともなく蟻が寄ってくる
       私がこの蟻であったとしてもおかしくない
        やせた野良猫が寄ってくる
       私がこの猫であったとしてもおかしくない

         「法」とは「水が去る」と書く
          流れないことが「仏法」か

             「無常無我」
             「色即是空」
             「悉有仏性」
             「諸法実相」

             歩くことは
            出会うことであり
            考えることであり
            味わうことだった

 

| - | 13:55 | comments(0) | trackbacks(0)
秩父・再生の旅 3 / 詩 『 言葉の寺 』

<写真:秩父間の巡り・納経帖>

「歌という友がいて、愛という名の宝石がある」秩父23番札所・音楽
寺の前の茶店に、いろいろな人の色紙に混じり、作曲家・遠藤実さんの
色紙が飾られてあった。
 音楽寺の名にあやかり、無名の演歌歌手などのヒット祈願の絵馬がた
くさん結ばれている。歌を歌いたい。でも世の中に受け入れられない。
神仏にでもすがりたい思いは、他人事ではない。その絵馬は、苦難の覚
悟であろうか、夢の残骸であろうか。

 今まで知り合ってきた多くの売れない歌い手たちは、知らないうちに
消えていった。いや、どこかでまだ、歌っているのかも知れないが。
 消えているようなまま、歌手の卵の私は、すでに燻製卵になりながら
も、歌い続けているが、それはもしかして、まだ芸術の神・ミューズに
見放されていないということなのかも知れない。それくらいは思いたい
のだ。

 観音堂の前の梵鐘は、明治17年・自由民権運動の一端である秩父事件
の時、農民の武装蜂起の合図に打ち鳴らされたものだという。
 寺のゆかりや歴史を尋ね、空気の澄んだ見晴らしのいい場所で、一時
止まった時間を持つことが、だんだんと快感になってゆくのだった。

 納経帖に書いた詩より

              言葉の寺
                    藤本すすむ
 
          鐘を撞け 世に響く鐘の音を
             百八つの乳頭が
          美しき鐘の音をつくるだろう

            罪の河 恥の河
           そこに架かる般若橋
          いくつの橋を渡っただろう
             別れを告げ
             思い出を残し

              寺を巡る
             言葉の寺を
             言葉で寺を
           それが「詩」である

              歌うとは
          あなたの名前を呼ぶことだ
               ただ 
             あなたの名前を



| - | 20:18 | comments(0) | trackbacks(0)
秩父・再生の旅 2 / 詩 『 カタクリの花 』

<写真:秩父観音巡り・通信隊慰霊碑文>

 …昨日から続く…
 その翌日、カタクリ群生地横の墓地の片隅にある「フィリピン戦
没者慰霊碑」に出会いました。立ち止まり慰霊碑文を読んでいると
涙が頬を伝わってきました。その感動を歌にしたのが『カタクリの
花』です。歌の合間に、飢餓決戦で48万人が死んだというその慰霊
碑文と、父が戦争から帰って来た後の体験を元にした物語を朗読部
分として挿入し、約10分の曲として完成しました。
 この歌が縁で、昨年は1週間の沖縄ライブツアーと、東京あきる野
市にある「ベーカリーカフェーみらい人」でコンサートをさせていた
だきました。           …ビタミンエッセイより…

 「自分が生まれる、たった9年前のことだったのか」、戦争が遠い
昔の話ではなく、足元の時間のように感じられたこと、それに敵と
の戦いというより飢えとの戦いだったという哀れさが、その時の
衝撃だった。
 実際は夏の旅であったが、早春に清楚な姿で咲く、はかない命の
カタクリの花に託して、春の歌として『カタクリの花』が生まれた。
ライブでこの歌を語り、歌う時、慰霊碑文を読んだときの感動が蘇
ってくるのである。

           カタクリの花
         作詩・作曲 藤本すすむ

     カタクリの花が咲く 山すその片隅
     雨上がりの日を受けて 慰霊碑が立つ
     黒光りの御影石に 自分の姿が写る
     カタクリの花を添え 刻まれた文字を読む

      『歩兵第75連隊通信隊慰霊碑文』
   北朝鮮会寧歩兵第75連隊通信隊はフィリピン島決戦の命を受け
  昭和19年12月ルソン島北サンフェルナンドに上陸した。
   20年1月9日、リンガエン湾に上陸した米軍と、ナギリアンロザ
  リオにおいて砲爆激下熾烈なる戦闘を繰り返し、すでに兵力の半
  数を失った。続いて山岳地帯ボンドッグローの戦闘では、弾薬、
  食料、通信機器の補給も全く無く、飢餓状態での戦闘を続けた。
  特に通信隊は、通信網確保のため多くの隊員を失い、電波は敵
  の探知の目標となり大打撃を受け、砲爆撃下での連日の死闘で、
  通信隊も銃を取って陣地の防衛につくした。
   8月16日残存兵力を結集し、最後の総攻撃を敢行することと
  なっていたが、8月15日終戦。フィリピン島入力兵士58万余。戦
  死者48万人。誠に補給絶無の過酷な飢餓決戦であった。 
  祖国の安泰を願い散華した戦友よ、この地に安らかにお眠りく
  ださい。

      カタクリの花が揺れ 思い出した故郷の
      年老いた父の顔 若い日の父
      胸の内に秘めている 一度だけ聞いた話
      カタクリの花が揺れ 父の声が揺れる

             (語り)

      カタクリの花よ咲け 春に淡い紫の
      この世に生まれて来た縁(ワケ)を 花は知らない 
      山の上から人里を 無言に見据える観音像
      カタクリの花の声 聞き入れながら

      カタクリの花よ咲け 春に淡い紫の
      生まれてくる場所も時も 選べないから

                  CD『歌を歩く』収録曲

| - | 18:55 | comments(0) | trackbacks(0)
秩父・再生の旅 1 / 詩 『 雨 』

<写真:秩父観音巡りの旅・1999年8月>

 終戦記念日。八月になると戦争に関する特別番組が報道される。
毎年この時期に、太平洋戦争や昭和史が再検証され、戦争体験者の証言
がなされ、戦争の愚かさが伝えられる。
 化学兵器を作るため人体実験をしていたという「関東軍731部隊」を取
り上げた民放のテレビ番組を見る。終戦時、部隊の中枢が情報提供の見
返りに戦争犯罪の免責を請うアメリカとの取引きがあったことを報じて
いた。
 
 私に一つの夏があった。ちょうどお盆の頃の一週間、炎天下と大雨の
中を歩いた体験である。先般出版された雑誌『歯科衛生士』ビタミンエ
ッセイに掲載された文章から引用する。

 1999年45歳の夏、行きつけのカウンターバーで酒を飲んでいたとき、
うとした話の拍子から、「秩父に観音巡り」というのがあり、近いし
行ってみるといいですよ」とマスターに勧められました。
 観音巡りの意味も全く知らなかった私は、すぐに書店へ行きガイド
ブックを買って読み、「観音巡り」とは観音様の安置されている札所
と呼ばれる寺を巡り、般若心経を唱え参拝することだと知りました。
 元々仏教や歴史には興味がありましたから、観音信仰の歴史などを
読んでいるうちに、秩父三十四札所、約120キロ全行程を歩いてまわっ
てみようとと思い立ちました。
 観音巡りの2日目は朝からどしゃぶりの雨となりましたが、男の意地
とばかり雨の中を1日中歩いて参拝したのでした。
 「私が生まれてから、秩父であんな雨は初めてです。あの雨の中を歩
いたなら、きっとご利益がありますよ」と、ある寺の住職にいわれまし
た。
                        …明日へ続く…

 納経長に、思いつくまま短い詩を書いていた。

            雨
                 詩 藤本すすむ

        雨は止みそうに無い
        雨の中を歩き続ける
        落ちた雨が路上で踊る
        音符になって路上で踊る

        悲しみは消えそうに無い
        悲しみを歩き続ける
        歌われる悲しみは
        唇で 輝きながら踊るだろう

        祈りとは
        想像の始発であり
        行動の終着である
        見えてくるまで
        待ち続ければいい
| - | 23:41 | comments(0) | trackbacks(0)
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